堀田時計店ミュージアム

堀田時計店ミュージアム
<版画館>


時代の変遷を映し出し
ホッタの歴史を彩った傑作版画

㈱ホッタの前身である堀田時計店は1879年(明治12年)、愛知県名古屋に創業し、輸入時計の卸小売業を開始しました。やがて置時計や掛時計の製造を専門工場に依頼し、堀田時計店オリジナル製品の企画販売を手掛けました。しかし、第二次大戦中と戦後の混乱により一旦、休業。やがて1947年(昭和22年)に時計卸商「堀田良平商店」として再発足し、翌年には㈱堀田時計店として組織変更されました。この創業や戦後再建などの周年事業や、本社社屋落成などの記念事業の一環として、堀田時計店は当時の有名版画家である伊東深水や金守世士夫、川上澄生などに、時と時計をモチーフとする作品の制作を依頼。この「版画館」では、堀田時計店が世に送り出した傑作版画の数々をご紹介いたします。

江戸の伝統を受け継ぐ美人画で
大衆を魅了した“昭和の浮世絵師”

伊東 深水(いとう しんすい)

伊東深水 肖像写真

日本画家、浮世絵師、版画家。1898年2月4日、東京都深川区(現在の江東区)に生まれる。本名・伊東 一(いとう はじめ)。13歳で浮世絵の伝統を受け継ぐ美人画の大家・鏑木清方(かぶらぎ きよかた)の門下生となり、「深水」の号を与えられる。翌年、第12回巽画会展初入選を皮切りに、さまざまな有名絵画展で入選し、新たな美人画の旗手として脚光を浴びる。1916年、渡邊版画店(現・渡邊木版美術画舗)から作品を発表したことを契機に、江戸以来の伝統的技法による「新版画運動」に参加。浮世絵に通じる柔らかな描写と妖艶さに、類型を脱した近代的な人間性への洞察力と時代の風俗・習俗を巧みに取り入れた独自の作風によって広く大衆的な人気を獲得し、婦人雑誌や新聞などの挿絵も担当した。粋人として知られた堀田時計店三代目社長の堀田六造との親交が深かったことから、六造は1940年(昭和15年)から1950年(昭和25年)までの10年間、深水の執事を務めた。この間(1945年3月~1949年8月)、空襲に見舞われた東京から長野県小諸市に疎開した際も、伊東家と堀田家は行動を共にしたという。戦後、事業を再興した堀田時計店は、記念行事の贈呈品として深水に時計をモチーフとする版画を依頼。1972年5月8日に死去(享年74)。

時計と美人「美人と櫓時計」

伊東深水画伯の筆による、この「美人と櫓時計(やぐらどけい)」は、1962年(昭和37年)に堀田時計店の再建15周年記念として制作された「時計と美人」シリーズ第一作です。原画を深水画伯が描き、彫りと摺りは渡辺版画店が担当しました。櫓時計とは江戸時代、欧州から輸入されたクロックをモデルに日本で製作された和時計のこと。時計の機械部分(ムーブメント)が櫓(やぐら)のような形の台に収められ、台の中に吊り下げられた錘(おもり)が落ちる力を動力として作動します。別名「大名時計」ともいわれるように大名や豪商が競って購入した非常な貴重品でした。それ故、「美人と櫓時計」というモチーフは江戸時代の浮世絵にも多く見られますが、伊東画伯は堀田家のコレクションにあった櫓時計の形状を確かな筆致で正確に描くと共に、美人を歌麿風に描くことで、江戸時代の雰囲気を見事に再現しています。ちなみに江戸美人の着物には、堀田家の家紋「木瓜紋(もっこうもん)」が描かれています。

時計と美人「夜會巻」

1964年(昭和39年)に堀田時計店の創業満85周年記念、および大阪店を南船場に新築移転した記念として伊東深水画伯に依頼した版画が、時計と美人シリーズ第二作の「夜會巻(やかいまき)」です。「夜會巻」とは明治時代、鹿鳴館(ろくめいかん)で夜会が華やかに開かれていたころに流行した女性の髪型。髪を中央から後ろに引き、後頭部で束ね、頭の頂点に向けて巻き込んでピンで押さえたもの。優雅なイメージに加え、和装にも洋装にも似合うことから上流婦人の間で流行しました。伊東画伯のこの作品は夜會巻に小紋の着物と黒紋付きを合わせ、雪の結晶を描いた半襟を身に着けた凛とした婦人が描かれています。この着物の柄が第一作の「美人と櫓時計」の江戸美人と共通し、家紋が堀田家の「木瓜紋(もっこうもん)」であることも興味深い部分です。この肖像の背景に米国で製作され、我が国では明治時代に人気となったバンジョークロックが描かれています。1802年、米国マサチューセッツ州のサイモン・ウィラードが発明したというバンジョークロックは、丸い文字盤と振り子を収めた長い胴が弦楽器のバンジョーを逆さまにしたように見えることから、こう呼ばれました。「夜會巻」のバンジョークロックでは、下部のふくらんだ部分の硝子から、丸い振り子の一部がチラリと見えます。

時計と美人「ボンボン時計」

1970年(昭和42年)、堀田時計店の創業88周年を記念し、伊東深水画伯に依頼した時計と美人シリーズ第三作「ボンボン時計」です。「ボンボン時計」とはその名の通り、時打ち機構を搭載した掛時計で、正時および30分ごとに時刻を鐘の音で知らせる機能を備えています。その音が「ボンボン」と響くことから、この名で呼ばれました。伊東画伯が描いたボンボン時計は、文字盤を八角形の枠が囲む、いわゆる「八角時計」。八角時計は1874年(明治7年)から全国各地の郵便局に備えつけられ、正確な時刻がわかることと珍しさから、遠くからも見に来たといわれています。当初は米国からの輸入品が主でしたが、やがて愛知県を中心に国産化が始まりました。これに最初に成功したのが明治20年、名古屋の時計商・林市兵衛商店(後の時盛舎/林時計製造所)であり、堀田時計店の初代・堀田良助は、1874年(明治7年)に林市兵衛商店に入店しています。版画の背景に描かれた八角時計は、堀田両平が所有していた林時計製造所が制作した国産最古の掛時計とのこと。つまり、八角時計とは文明開化と初期の国産時計の象徴であり、㈱ホッタの原点でもありました。ちなみに堀田良助は1879年(明治12年)に独立し、名古屋で時計卸小売商を創業。1897年(明治30年)には米国のアンソニア、アイゼキ両社より8日巻掛時計機械を輸入し、自家製ケースに組み立てて販売しました。おそらく伊東画伯は、これらの史実を踏まえた上で堀田家所蔵の「ボンボン時計」をモデルに描いたのでしょう。また、先の二作とは異なり、婦人の描写が浮世絵風から写実的で近代的な筆致へと変化していることにも注目。ちなみに婦人の髪型は江戸から明治にかけ一般的だった「島田髷」と思われ、一本の赤い珊瑚の簪(かんざし)でさりげなく気品を表現しています。

時計と美人「赤と白」

1969年(昭和44年)に堀田時計店の創業90周年の記念として、堀田時計店と強い絆で結ばれた美人画の第一人者、伊東深水画伯が手掛けた版画です。これまで製作された時計と美人シリーズの版画では、第一作の「美人と櫓時計」で江戸時代を、第二作「夜會巻」と第三作「ボンボン時計」で明治時代を描いてきましたが、第四作となる「赤と白」で昭和を表現しました。モデルとなったのは伊東画伯の愛娘であり女優・タレントとして活躍した朝丘雪路さんだといわれています。白いブラウスに真っ赤なスカートを身にまとい、リボンタイにベレー帽をかぶって口紅を塗るモダンな若い女性は、雪路さんの明るいイメージに重なりますし、題名の「赤と白」は、スカートの「赤」と、それを身にまとう朝丘雪路(朝の丘の雪の路)という芸名が意味する「誰にも踏まれていない白い雪」のイメージを投影されたものと考えられます。その背景はカラフルな幾何学模様に彩られ、ローマ数字のインデックスとルイ14世風の装飾的な針を備えた掛時計には「HOTTA」の文字が見えます。しかし、この時計は背景に溶け込むように描かれ、どちらかというと影が薄いのが特徴。もしかすると、ここに伊東画伯のモデルである雪路さんへの愛情が秘められているのかもしれません。

力強さと幻想性を併せ持つ
稀有な創作版画家

金森 世士夫(かなもり よしお)

版画家。1922年(大正11年)1月24日、富山県高岡市生まれ。1942年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)中退。1942年(昭和17)年に招集され、中国大陸に渡る。1946(昭和21年)年、復員し故郷に戻る。そこで当時、戦災の東京を離れ、富山市福光町に疎開していた棟方志功を訪ね、教えを仰ぎ師事。翌年、初めての版画作品「版画菩薩曼荼羅」を棟方に絶賛され、国画会工芸部に初出品を果たす。1950年には棟方志功や山岳を題材とした版画で知られる畦地梅太郎らと共に『越中版画』を創刊する。1958年、ニューヨークのセント・ジェームス現代版画展で聖書を主題とする「イサクの犠牲」が3等を受賞するが、棟方志功との類似性が指摘されたことで、その後、異なる主題を求めて京都を訪問。南禅寺において枯山水の庭が夕立の前後で表情を変える様子を見て、後に長く主題となる「湖山」の着想を得たという。1970年、これを主題とする大判多版多色摺りの「湖山」を刊行。1975年、堀田時計店四代目社長である堀田良平の藍綬褒章受賞を記念し、時計をモチーフとした作品『湖山「時計神」』を制作。1981年には富山県文化功労賞を受賞し、スイス・バーゼルでも個展を開催した。金守世士夫の初期の作風は、江戸時代から越中富山に伝統的に存在した薬売りのお土産や引札(広告)として刷られた「売薬版画」や、立山信仰に由来する宗教版画の伝統を継承し、師である棟方志功風の素朴な味わいの自画・自刻・自摺りの典型的な創作版画であった。だが、「湖山」を主題する作品では、文字通り山と湖に加え、蝶や花、鳥、神など象徴的な題材と組み合わせることで、豊かな色彩感覚をベースとした詩情あふれる幻想的な作風へと変化していった。2016年12月9日に死去(享年94)。

明治鉄砲町時代

1979年(昭和54年)、堀田時計店の創業100年を記念して金守世士夫画伯に制作を依頼したこの作品は、1895年(明治28年)に堀田時計店の名古屋鉄砲町の土蔵造り総二階の店舗屋上に設置された時計塔を描いたものです。1879年(明治12年)、堀田時計店初代・堀田良助は、名古屋の高名な時計商である林市兵衛商店から独立し、下長者町に最初の店を構えました。やがて1883年(明治16年)、鉄砲町に移転。1895年(明治28年)には店舗の屋上に金田市兵衛が手掛けた当時は珍しい国産時計機械(ムーブメント)を用いた、4方向に文字板を持ついわゆる「四方時計」を設置しました。この明治時代の希少な時計塔を、金守画伯は自画・自刻の素朴な明治錦絵調により、当時の雰囲気そのままに描いています。また、その店内には掛時計だけでなく櫓時計も並んでいます。この版画の摺りを担当したのは、現代木版画の手摺り処として60年以上の歴史を持つ小林竹芳洞の小林義昭氏。用いた紙は絵巻物や版画用紙として最善といわれ、国の重要無形文化財にも指定されている越前手漉き特製「鳥の子紙」です。

湖山「時計神」

1975年(昭和50年)、堀田時計店四代目社長・堀田両平の藍綬褒章受賞記念として金守世士夫画伯が手掛けた作品です。棟方志功に師事し、仏教やキリスト教を題材とした創作版画で頭角を現した金守画伯でしたが、やがて『棟方は一人でいい』との言葉に接し、独自の作風と題材を求めました。その際、京都南禅寺の枯山水が夕立の前と後で様相がまったく異なったことを見て、「湖山」の主題を着想したといいます。この『湖山「時計神」』という作品は、その系譜に属するものであり、暗く沈んだ湖と山の上に時計を持った女神が浮かび上がる幻想的な景色が描かれています。自画・自刻による作品ですが、摺りを担当したのは浮世絵の摺師であり、東京藝術大学で講師も務めた内川又四郎氏。用紙は重要無形文化財和紙づくり保持者の人間国宝・岩野市兵衛氏による手漉き和紙です。

湖山「時計塔」

1977年(昭和52年)、堀田時計店の戦後再建30年を記念して制作された作品が、この『湖山「時計塔」』です。ここに描かれた時計塔は、その後に制作された明治期の堀田時計店時計塔を描いた『明治鉄砲町時代』に共通するモチーフです。雄大な山と湖の背後に三角屋根の時計塔がほのかに浮かび、まわりには二頭の蝶が舞っています。西洋において蝶は復活と再生、そして不滅の象徴です。すなわち、この作品において金守画伯は、明治期に創業したものの、戦中の混乱期に休業を余儀なくされ、戦後、見事に復活を果たした堀田時計店の足跡を投影させたのではないでしょうか。金守氏画伯の自画・自刻をもとに、摺りを小林竹芳洞の小林義昭氏が担当。用紙はやはり越前手漉き特製「鳥の子紙」が使われています。

湖山「櫓時計」

<制作年不明> 金守世士夫画伯が長く主題とした「湖山」の系譜に属する作品ですが、こちらだけ他の作品とは趣を異にする硝子(ガラス)絵の技法が用いられています。硝子絵とは欧州で発祥し、江戸時代に長崎を通じて中国から伝えられた作画技法。透明なガラス板に絵を描き、反対側から鑑賞する絵画です。その技法ゆえ、他の「湖山」作品とは異なり、くっきりした骨太な輪郭線で、江戸時代に作られた和時計の一種「櫓時計」と湖、山を描いています。櫓時計の台には牡丹が描かれ、まわりを蝶が飛んでいます。 牡丹の花言葉は「風格」。蝶は復活と不滅のシンボル。おそらくこの図柄は、堀田時計店四代目にして古時計および時計資料の蒐集家、研究家としても著名だった堀田両平の業績が永遠に不滅で高貴なものであると暗示しているように思います。堀田両平が収集した時計書籍と資料は1987年、国立国会図書館に寄贈され、現在は堀田コレクションとして公開されています。その数は約6,000種という膨大なもの。また堀田両平が自社の記念事業にちなんで時計をモチーフとする版画を著名な版画家に依頼して世に送り出したことも、日本の時計文化における功績のひとつだといえるでしょう。

自由闊達な自画・自刻・自摺で極めた
型染版画の世界

神崎 温順(かみさき すなお)

1932年(昭和7年)生まれ。1953年(昭和28年)、京友禅の名跡であり人間国宝にも指定された田畑喜八に師事。1955年(昭和30年)、土佐和紙に魅了され高知県高知市に転移。型染(かたぞめ)を原点とする骨太で力強い表現に高い精神性と芸術性を融合させることで、創作版画とは一線を画す独特の作風を確立した。平成2年「神崎温順展」を日本橋高島屋で開催。ちなみに型染とは、何重にも重ねた和紙に柿渋を塗って硬くした渋紙に、錐や小刀で図案を切り込んで型紙とし、これを使って布や紙を染める日本の伝統技法。この技法をもとに「型絵染(かたえぞめ)」と呼ばれる技法を確立したのが1956年に人間国宝となった芹沢銈介(せりざわ けいすけ)である。神崎温順はこの「型絵染」の技法を用い、蔵書票をはじめとする数多くの作品を制作し、次々と作品集を上梓。また帯など和装品も手掛けた。

シュヴァルツヴァルトの時計行商人

1984年(昭和59年)、堀田時計店四代目社長の堀田両平の勲五等双光旭 日章受賞を記念し、神崎温順画伯が制作した型絵染による作品。「シュ ヴァルツヴァルトの時計行商人」とは、17世紀後半、ドイツ南西部シュ ヴァルツヴァルト(黒い森。英語ではブラックフォレスト)地方で作られたクロックを、ヨーロッパ各地を巡って販売した行商人のことです。現在の日本ではドイツ時計の産地というと西部のドレスデンに近いグラスヒュッテが知られていますが、時計作りの歴史はシュヴァルツヴァルト地方がより古く、地名の通り豊富な木材資源を生かした家具や人形、クロック作りが盛んになり、やがて18世紀中頃に鳩時計(正確にはカッコー時計)が発明されたことで、これらの時計を背負ってヨーロッパを旅する時計行商人がシュヴァルツヴァルトの名物となりました。また、その姿を描いた木彫の人形がドイツやイタリアで作られました。この作品は、堀田家が所有する木彫人形をモチーフとして制作されたもの。ちなみにシュヴァルツヴァルト地方の時計産業はその後、アメリカから近代的なシステムを導入して発展。クロックをはじめ腕時計や宝飾品なども生産するようになり現在に至ります。

羊飼いの少年

神崎温順画伯が得意とする型絵染技法を用いた印象的な作品です。角笛を吹き、斧を手にして大きな懐中時計とランプをぶら下げた羊飼いの少年の姿は、ヨーロッパで作られた木彫をもとに描かれたと思われます。この角笛を吹く羊飼いの少年のモチーフは神崎画伯のお気に入りであったようで、同じ型染技法による蔵書票も作られました。「蔵書票」とは本の持ち主を示すため本の見返しなどに貼る小さな紙片。趣向を凝らした意匠と多彩な技法が用いられ、日本では神崎温順画伯をはじめ、棟方志功画伯、金守世士夫画伯など多くの有名版画家も手掛けました。また、別項で紹介する私家版書籍「時と人形と」にも「羊飼いの少年」の型染画が収められており、そこには「今日という一日は 明日という二日分の ねうちをもっている」というベンジャミン・フランクリンの名言が添えられています。

私家版書籍「時と人形と」

1986年(昭和61年)、堀田時計店の四代目社長である堀田両平が私家版として50部限定で発行した書籍です。ヨーロッパで作られた時計にちなむ人形をモチーフとする18葉の型絵染の画が折本仕立てで収められています。そして、その型絵染の画一葉につき、時にまつわる名言や金言、諺(ことわざ)が同じ技法で刷り込まれています。画集の箱と装丁には神崎画伯が愛した土佐和紙が用いられるという、非常に凝った作りの豪華な画集となっています。

ノスタルヂアと異国情緒が融合した
詩情あふれる“へっぽこ先生”の世界

川上 澄生(かわかみ すみお)

川上澄生 肖像写真
鹿沼市立川上澄生美術館所蔵
1951年(昭和26年)頃、第一洋食店前にて

版画家。1895年(明治28年)、神奈川県横浜市に生まれる。本名・川上澄雄。青山学院高等科を20歳で卒業後、1917年(大正6年)、父のすすめでカナダ・ヴィクトリアに渡り、その後、アメリカのシアトルやアラスカで生活。特にアラスカでは鮭缶詰の工場での過酷な労働を経験し、1918年(大正7年)弟が亡くなったとの知らせを受けて帰国する。帰国後、さまざまな仕事につきながら、再びアメリカに渡りたいという夢を抱くが、1921年(大正10年)、旧制宇都宮中学(現・宇都宮高校)に英語教師として着任。この時代、昼は教師、夜は野球部の指導を行い、その合間に版画制作を行う。1922年(大正11年)、第4回日本創作版画協会展で初入選。1926年(大正15年)には国画会に自画・自刻・自摺りの創作版画と詩が一体化した『初夏の風』を出品。独自の世界観が認められる。また、この作品を見た棟方志功は油絵画家から版画家への転向を決意したという。1927年(昭和2年)、初の詩画集『青髯』を自費出版。その後、戦争末期の北海道での疎開生活を経て、1949年(昭和24年)に宇都宮に戻り、宇都宮女子高等学校で教鞭をとる。1958年(昭和33年)、教壇から降り版画制作に専念。戦後の川上澄生は南蛮風俗や明治の文明開化期を題材に作品を制作。特に文明開化の象徴である時計やランプは何度も主要なモチーフとして作品に登場するほどの傾倒ぶりであった。1967年(昭和42年)に勲四等瑞宝章を受章。1972年(昭和47年)9月1日、77歳で逝去。この頃、洋酒のテレビCMに川上自身を投影した「へっぽこ先生」が登場。かつての作品も復刊されて一種の川上澄生ブームが起き、懐古的で詩情溢れる作風が再評価され大衆的な人気を獲得。1991年(平成3年)には鹿沼市に川上澄生美術館も開館し、現在も新たなファンを獲得し続けている。

時計とランプ

1971年(昭和46年)、東京都台東区での新社屋竣工を記念し、川上澄生画伯に制作を依頼した版画作品です。右に華麗な装飾が施された置時計、左に美しい花の絵と蜜を求めて花に集まる蝶の姿があしらわれたランプ(洋燈)が描かれています。時計もランプも川上画伯がもっとも愛し、幾度となく作品に登場するモチーフであり、非常に緻密な彫りを特徴とする素晴らしい作品に仕上がっています。このようにランプを愛した川上画伯にちなみ、9月1日の御命日には、宇都宮市の延命院で1973年(昭和48年)から2002年(平成14年)まで、画伯を偲ぶ「洋燈忌(ようとうき)」が催されてきました。なお、この作品の摺りを担当したのは、東京藝術大学の講師でもあった摺り師の内川又四郎氏。用紙は福井県の無形文化財であり人間国宝の岩野市兵衛氏による手漉き和紙が使われています。

時計とコップ

1972年(昭和47年)、堀田時計店の戦後再建25周年を記念し、川上澄生画伯に制作を依頼した作品です。モチーフとなった時計は、17~18世紀に主にドイツなどで作られた「ホリゾンタル・テーブルクロック(水平テーブル時計)」と呼ばれるもの。八角形の金属製ケースに水平の状態でムーブメントが収められており、時刻は時計を上から覗き込むようにして確認しました。ケースの側面にはムーブメントの様子が見える窓が開けられているのも大きな特徴。川上画伯は、この八角時計のモチーフをたいへん好んだようで、1944年(昭和19年)に刊行された多色木版摺り限定100部の豪華本『時計』にも、同様の時計が描かれています。ただし、この画集では時計だけが描かれていましたが、堀田時計店が依頼したこの作品ではランプと樽のような作りのコップ(ビールジョッキ?)と共に、机上の静物画として描かれています。ちなみに、この作品の摺りは内川又四郎氏。用紙は福井県の人間国宝・岩野市兵衛氏による手漉き和紙が使われています。

時計と本

こちらの作品は、1972年(昭和47年)に堀田時計店の戦後再建25周年を記念して川上澄生画伯に制作を依頼したものです。描かれているのはケースに緻密な彫金が施された懐中時計と簪(かんざし)、そして英語のリーダー(読本)です。このリーダーに書かれている英文が正しいのか正しくないのか、実在したものなのか架空のものなのか不明であり、「We re going to」に「すぐ朝飯にいたしましょ」とか、「Ligt aeandle」に「蝋燭をおつけなされ」など、実に不思議な英文と訳語になっています。しかし、実は川上画伯は1917年(大正6年)、22歳の若さで北米に渡り、約1年間、各地を転々とした経験の持ち主。帰国後の1921年(大正10年)には宇都宮中学(現・宇都宮高校)に英語教師として着任するなど、英語も堪能でした。また、このような絵入りリーダーのスタイルは川上画伯のお気に入りであり、実際に『変なリードル』(昭和9年)、『りいどる絵本』(昭和12年)などの作品も著しています。こちらも他の作品と同様、摺りは内川又四郎氏。用紙は福井県の岩野市兵衛氏による手漉き和紙が用いられています。

洒脱な筆致で江戸の暮らしを活写した
異色の経歴を持つ版画家

森 義利(もり よしとし)

森 義利 肖像写真

版画家。1898年(明治31年)10月31日、東京日本橋に生まれる。友禅文様を学び、模様絵師として一時代を築いた後、民藝運動を主導した柳宗悦(やなぎ むねよし)に傾倒。芹沢銈介(せりざわ けいすけ)を中心とした萌木会会員として活動。1957年(昭和32年)に第一回東京国際ビエンナーレ展にて次席となったことで版画家としての再出発を決意。身につけた型染め技法に工夫を加え、合羽摺(かっぱずり)版画を創始した。合羽摺とは、着色する部分を切抜いた渋紙を型紙として刷毛で着色する技法。森画伯は明治、大正、昭和を生きた“生粋の江戸人”であり、生まれ育った東京下町の風物や歌舞伎、武神、源平合戦などをテーマとする力強い作風が持ち味であった。終生、東京日本橋で暮らし、1992年5月29日、没(享年93)。

江戸美人と櫓時計

1989年(平成元年)、堀田時計店が創業110年を記念し、森義利画伯に依頼した作品です。森画伯が描いたのは、江戸期の浮世絵にもよく見られた櫓時計と美人の図。この作品では森画伯が得意とする豪快な合羽摺ではなく、流麗な筆致で描かれた肉筆画を版画に起こしたものです。明治末期に東京日本橋に生まれ、“生粋の江戸人”と呼ばれた森画伯ではありますが、浮世絵のような類型的な描写ではなく、ご自身の筆のおもむくままに、たおやかな江戸美人と江戸期の最先端テクノロジーであった櫓時計を、温かみ溢れる視線で捉えた稀有な作品に仕上がっています。

構成・文:名畑政治 / Composition & Text:Masaharu Nabata
写真:岸田克法 / Photos:Katsunori Kishida

【ホッタオリジナル絵馬】

毎年『お年賀』として作成しているホッタの “オリジナルミニ絵馬” は、昭和48年頃から続いています。四代目の堀田両平は版画に造詣が深く、 “時計” をモチーフにした絵馬用の版画製作を色々な作家に依頼してきました。両平は「ありきたりの物ではなく、当社らしいオリジナルの物を届けたい」「お客様あってのホッタであり、お客様の商売繁盛こそが一番だ」という思いのもと、オリジナルの絵馬製作を始めました。絵馬に一年の願い事を書いて結んでいただき “満願成就できるように” との思いで新年にお届けしたのが始まりです。

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